さてさて 「武鑑」 というものを ご存じでしょうか?
ざっくり言うと 江戸時代の武士の名簿です。
現代では 「紳士録」とか「名士録」に進化っていうところかな。
江戸時代ですので もちろんっ!? お家柄重視です。
特に「徳川家」の血筋優先 血脈の濃い順で校正されています。
ここでは 「大成武鑑 第1巻」・・・嘉永2年刊
「大成武鑑 第3巻」・・・慶応2年刊(前期)
「袖玉武鑑」・・・・・・・・・・慶応2年刊(後期)
「華族名鑑」・・・・・・・・・・明治27年刊 を紹介します。
まず最初は
嘉永2年発刊の
「大成武鑑 巻之一 御大名衆」です。
けっこう ボロボロちゃんを 入手しました。
安価でした。
題名すら 見えません。
ならばと
早速 ブックカバーを作りました。
本物の題名には書いていませんが
発行年月も書きました。
表紙の差込み口を作成しました。
なかなかです。
じゃんっ!
ぴたりんこっ です。
当たり前のことです。
このために作ったのですから!
さてさて 中身は・・・
おっ!松平肥後守です。
このページは 会津松平家8代目
「松平肥後守容敬公」が記載されています。
会津藩の初代は 保科正之公です。
正之公の父親は 徳川2代将軍 秀忠公で
母親は静姫(浄光院)です。
正室(江姫)の子ではないため
高遠藩 保科正光の養子として育った人です。
その後 会津藩3代目の時に 「松平」姓となり、
保科家本家は上総国 飯野藩になりました。
本家(会津)・支藩(飯野)の間柄で何かと交流があり
会津藩8代目 松平容敬公へ
飯野藩10代目 正益公の実姉「照姫様」が 養子として迎えられています。
次のページは
会津松平家9代目「松平若狭守容保公」のお名前が載ってます。
容敬公は 文久2年に京都守護職に任命されて
新撰組の元締めみたいな役職になりました。
伏見・鳥羽の戦い などなど
戊辰戦争では 会津のお城に籠城して
容敬公や照姫様は新政府軍と戦い本当に大変なことになってしまいました。
会津藩は すごい頭脳明晰の人が多く
家老 山川大蔵などは明治政府の陸軍で活躍したり
その弟の山川健次郎は東大の総長になったりと大忙しです。
同志社大学創立者の 新島八重などは超有名ですね。
家老 西郷頼母の養子 四郎は 講道館で柔道家として大活躍し
小説「姿三四郎」のモデルらしいですね。
武術家といえば上総飯野藩にも森要蔵という凄い人がいて
北辰一刀流の「玄武館四天王」で麻布の保科藩邸近くで道場をやっていました。
小説「龍馬が行く」にも登場します。
ただし主人公の龍馬には負けてしまいます。とほほっ
森要蔵の孫に 講談社創立者の野間清治がいて護国寺に野間道場をつくりました。
木造の大きい道場は剣道の聖地として人気があったのですが
残念ながら2007年に解体してしまいました。
曾孫の森寅雄は 剣道範士八段でありながらフェンシングで全米で準優勝したりと大忙しです。
外国では「タイガー モリ」で有名なのですが
ゴルフの「タイガー ウッズ」と文字の意味合いは同じような気がします。
もしかして同姓同名か? と思うのは私だけでしょうか!
えー さてさて 次のページは
上総 飯野藩 保科家ですね。
「保科威六郎公」の名前です。
飯野藩保科家10代目 保科正益公の幼名です。
飯野藩保科家は、初代保科正貞公の母親「多劫姫様」が徳川家康公の妹(異父)なのでとても優遇されていたらしいですね。
ちなみに徳川家も 松平家も 保科家も 「源」が氏、 「朝臣」が家格、 「徳川」や「保科」が名字、 「家康」「正貞」などが諱(本名)になるそうです。
あと通称が入りますね。 家康公でしたら「次郎三郎」 かな。
こちらは 慶応2年発刊の
「大成武鑑 巻之三」です。
この巻は 役職名簿です。
御老中・御若年寄の順ではじまります。
この本も 安価で入手しました。
え~
「保科弾正忠正益公」は
大阪城の 「定番」ですね。
「城代」に次ぐ役職で「京橋口」と「玉造口」の2箇所があります。
保科家は代々大阪の定番を任されていました。
この年は「京橋口」の係だったようです。
昔は 京街道へ出るとき使ったらしいですね。
現在は 梅田や北新地に近い出入口です。
出版は「慶応2年」と書いてあります。
正益公は慶応2年5月に「若年寄」になりました。
この本の 役職は「御定番役」と記載されているので 慶応2年4月以前の出版と推定します。
保科正益公が
「御定番役」を 慶応2年前期
「御若年寄」を 慶応2年後期と勝手ながら同定します。
さてこの法則によりますと・・・
次の「袖玉武鑑」は 慶応2年後期刊です。
続いて登場は「袖玉武鑑」です。
読み方は「しゅうぎょくぶかん」です。
横長の冊子です。
かなりボロボロでしたが
値段は一丁前でした。
お題の拡大写真です。
すれっすれ 読み取れます。
巻末頁を開きますと
「慶応2年」発刊とわかります。
巻頭に戻りまして
まずは 目次です。
目次の拡大写真です。
「凡例目録」と書いてあります。
1頁は「御老中」
2頁は「若年寄」
と書いてますね。
1頁目の「御老中」の見開きです。
はいっ拡大っ!
御老中は「水野出羽守」
駿河 沼津藩の水野様です。
静岡県沼津市ですね。
2頁目の「若年寄」の見開きです。
おやっ!
左の方に 角九曜紋が・・・
左の方を・・・ はいっ拡大っ!
上総飯野藩 保科弾正忠公です。
保科正益公のことですね。
前職が大阪定番役だったので大出世ですね。
ただ幕末の乱世ですので大忙しです。
同年(慶応2年)第2次長州征伐では石州口の指揮を任されたりして大変でした。
大村益次郎と直接対峙したかは定かではありませんが石州口で幕府軍は大敗してしまいました。
私の記憶ですと 保科正益は 「石州口」に向かっている途中
「芸州口」に行くように命令がありグルグル移動しているうちに
幕府軍が大敗したような話しを聞いたような・・・。
とにかく命を落とさず良かった良かった。
その後の私の運命にも係わってくる事なので・・・。
とにかく 慶応3年には 「若年寄」職を辞退してしまいました。
続いて
明治27年発行の「華族名鑑」です。
「華族」とは明治2年から昭和22年まであった
貴族階級です。
江戸時代に諸侯だった人は「武家華族」「大名華族」などと言い 維新前の石高により後の爵位を
「公・候・伯・子・男」の順で決めたそうです。
15万石以上が侯爵 5万石以上が伯爵 5万石以下が子爵らしいです。
記載順は
江戸時代の「家柄順」ではなく
「いろは順」です。
但し いろは順に分けた後は「いろは順」ではなく
「新政府功労順」「薩長功労順」とでもいうような
順番になっています。
「ほ」を例に見ますと
熊本の細川護成がトップですね。
後の細川護煕総理の祖父の兄です。
護煕元首相は 現在湯河原で「不東」さんの銘で 作陶していますね。私が言うのもなんですが とても ほっこりとした作品が良いと思います。
保科家は 「保(ほ)之部」です。
飯野藩保科家 保科正益は
江戸時代 大名 石高が2万石なので
明治時代に「子爵」を叙爵されました。
「保科盛之助」の名前があります。
保科正益公のご子息 後の保科正昭です。
位はというと 「子爵の子は子爵」 です。
お仕事は 貴族院議員をやられていました。
奥様は 北白川宮能久親王 第三王女 武子様です。
昭和天皇の妃 香淳皇后の女官長を永年にわたり勤めていました。
映画「日本のいちばん長い日」2015年作品で、
保科武子(女官長)役があるくらい大活躍な人です。
女優の宮本裕子さんが熱演しています。
正昭の兄弟姉妹には
新潟県知事 男爵 楠田英世の孫娘 英子に婿入りした咸次郎。
その子女・相子は三菱銀行頭取田実渉に嫁いでます。
三菱創業家の男爵 岩﨑久弥の奥様 寧子。
上野の旧岩崎邸のリビングに写真が飾ってありますね。
以前、お土産で当時の壁紙である 金唐紙のしおりを購入しました。
その子女・美喜はエリザベス・サンダースホームを開設しました。
大磯駅前に記念館があり、石垣に石彫肖像がありますね。
日本ボーイスカウト 山中野営場の伯爵 佐野常羽の奥様 尚子。
山中野営場の正面玄関を入った場所に胸像があります。
シルバーウルフ章を授与された日本人は昭和天皇と佐野常羽の2人のみ。
「弥栄(いやさか)」という掛け声(エール)を創案した人物である。
佐野常羽の父は日本赤十字社の創始者である佐野常民。
大阪の適塾に塾生名一覧に載っていますね。
常民は、露天で彫刻「鉄筆画」を販売していた
加納鉄哉 を見いだし 天皇の前で披露した事でも有名である。
落語で 左甚五郎が出てくる話のようなサクセスストーリーですね。
箱根底倉温泉「蔦屋旅館」の澤田和義の奥様 建。
澤田和義の父 武治 は元飯野藩の起倒流柔術の指南役であったらしい。
嘉納治五郎の書物に 飯野藩起倒流「澤田義明」という人物が登場するが、同一人物か?。
起倒流柔術澤田武治の門弟にあの奥田松五郎がいる。
明治17年1月19日(読売新聞記事)によると「起倒流柔術発会」にて
起倒流澤田武治門弟 會主 奥田松五郎として出席している。
奥田松五郎といえば岩手県の柔道の父と言われ、後に「奥田流柔術」を創ったり、
当時からメチャ強かった三船久蔵に 本格的に柔道修行をするよう薦めた人物である。
三船久蔵は後に 柔道十段になった凄い人物である。
澤田武治の長男 和義は旅館業の傍ら「昆虫生態学」を出版。
先日この本を入手したが凄く細い線で昆虫が描かれていて度肝を抜かれました。
お札の絵より細かい線でした。
和義が建立した石碑がのことは 同HPの「蔦屋旅館 石碑」を見てください。
和義の子に 植物学者の澤田武太郎、昆虫学者の澤田秀三郎がいる。
兄の澤田武太郎は、横浜植物会へ入会、牧野富太郎を師と仰ぐ。
奥様は家紋学者の沼田頼輔のご息女で、武太郎の没後
資料が散在してしまうことを懸念したという。
武太郎の資料や植物収集さく葉などは、神奈川県立博物館(現:生命の星地球博物館)へ「澤田文庫」として寄贈。その他、母校東京大学などにも所蔵されている。
弟の秀三郎は 「サワダムシ」や「サワダマメゲンゴロウ」の発見者。
あの南方熊楠に来訪したこともあったのですが、長年口伝でしたが
近年、熊楠の日記に「澤田君来訪」が発見され裏付け証拠となった。
また、「澤田武太郎植物日記」などは武太郎没後、弟の秀三郎が編している。
同HP「名和昆虫博物館」「ヒメハルゼミ」にも澤田秀三郎の功績が書いてあります。
その澤田秀三郎の子に 教育心理学者の澤田七郎(東洋大学)がいます。
星の王子様についての論文などを目にしたことがあります。
少々横道に逸れましたが
以上 武鑑の研究室でした。
おしまい。